
外壁塗装や内装リフォームなどを事業とするONE LINK株式会社(奈良県奈良市)の久下将稔代表取締役社長は小学校から野球を始め、大学まで続けました。キャッチャーとして磨かれた洞察力や、チームメイトと喜びも悔しさも分かち合った共感力は現在の仕事でも大いに役立っているそうです。
【ゲスト】

ONE LINK株式会社
久下将稔代表取締役社長
1992年9月8日、京都府出身。小学校2年から野球を始め、花園高校、大谷大学まで捕手ひと筋でプレー。2021年、ONE LINK株式会社に取締役として入社。2023年、代表取締役社長に就任。
■キャッチャーの楽しさを知った小学生時代
――野球を始められたきっかけから教えてください。
久下:小学校2年の時に、4つ上の兄も入っていた京都の二条城北少年野球部で軟式野球を始めました。父の強制だったので、最初は気乗りしませんでした。
――ポジションはどこだったんですか?
久下:運動神経があまり良くなかったんで最初からキャッチャーだったんですが、監督から言われてやってみたら面白いと感じました。投げるわけではありませんが、三振を取った時は迫力があって、気持ち良かったのを覚えています。
――最高成績はどれくらいですか?
久下:京都府の大会で2位になりました。毎週末、何かしらのトーナメントに出ていたので、メダルは50個くらいありました。二条城北小学校と同じ地域の子供しかいなかったのに強かったですね。今では考えられないくらい超絶スパルタチームでした。
――準優勝したのは何年の時ですか?
久下:6年生の時です。打てない4番、頼りないキャプテンでした。打率もチームで一番低いし、4番でキャッチャーでキャプテンという花形だったのに、一番怒られてましたね。ただ、ここで打ってほしいという時だけは絶対に打つ選手でした。
――決勝で負けた時のことは覚えていますか?
久下:気付いたら終わってました。大枝イーグルスというチームに手も足も出ず、確か1-5で負けたと思います。
後列右から2人目が久下将稔氏・本人提供
■中学時代は近畿大会3位に躍進
――中学は学校の野球部に入られたんですね。
久下:二条中学校の軟式野球部に入りました。振り返ると、野球人生のピークは中学生でしたね。3年生の春に優勝して夏は京都市大会で準優勝、京都府大会で優勝し、近畿大会で3位に入りました。近畿大会準決勝で負けた荒井中学のピッチャーは軟式で138キロ出す剛腕で、神戸国際国際大付属高校に進学して甲子園でも投げてました。
――活躍できましたか?
久下:打率は2割台で、ここという時だけ打つのは大学まで変わりませんでした。新庄監督の現役時代みたいな感じですかね(笑)。
――いろいろな高校から誘いがあったのではないですか?
久下:私たちの2個上の先輩が全国大会に行くような凄い選手が揃っていて、龍谷大平安などたくさんの誘いが来たんですが、地元志向が強かったので全て断って全員地元に残ったんです。その影響もあったのか、それほど多くのオファーは来ませんでしたが、私も2、3校からは誘っていただきました。バッテリーを組んでいた同級生の奥井雄亮は静岡の静清工に進学してキャプテンを務め、後に同じ大学に入って再びバッテリーを組みました。
――久下社長は京都の花園高校に進学されました。
久下:私はセンスがなくて目立つプレーヤーではなかったのですが、春の大会で優勝した試合をたまたま花園高校の監督が見てくれていたんです。「まだ決まってないらしいですね」とわざわざ中学まで来ていただきました。
――喜んで行きますと?
久下:それが、私は体育の先生になりたかったので体育科に行きたかったのですが、花園高校には体育科がなく、オファーがあったのは進学クラスだったんです。そこなら勉強は大変だけどスポーツ推薦枠があるからと言われて、かなり迷いました。賢いクラスに放り込まれるのが嫌だったんですが進学を決めました。
後列右から2人目が久下将稔氏・本人提供
■完全燃焼するはずが…高校最後の夏に受けた「運命の死球」
――入ってみてどうでしたか?
久下:勉強はついていくのに必死でしたが、野球部では3年からレギュラーになれました。最後の夏の大会の3回戦で龍谷大平安に1-5で負けたことは昨日のことのように覚えています。
――龍谷大平安が甲子園に出たんですか?
久下:その夏に甲子園に出たのは京都外大西でした。同世代では、今も西武でプレーしている森脇亮介投手が塔南高校にいました。直接対戦したことはないのですが間近で見たことがあって、えぐい球を投げてましたね。
――高校時代に印象深かったことは何でしょうか?
久下:花園高校野球部の小瀬博孝監督は「闘志なき者はグラウンドを去れ」をスローガンに掲げる熱い監督でした。花園高校が甲子園に行った時の4番エースでキャプテンだったのですが、その監督から「お前らは甲子園に行くために野球をしてるんじゃない。人々を感動させるためにやっているんだ」と初期の段階から刷り込まれていました。それが一番印象に残っている言葉ですね。
――どういう意図で仰ったんでしょうか?
久下:ひたむきにプレーする姿を見ていただいて勇気や感動を与えるためにきつい練習をやっているんだと教えられました。当時は平安を倒して甲子園に行くのが目標だったので、衝撃でしたね。他の人のことなんて考えず、自分たちが甲子園に行くためにやってると思っていましたから。
――感動させることはできましたか?
久下:結果的にできたかなと思います。平安に負けた最後の試合で、5番打者だった私は140キロ台の剛速球を投げるピッチャーからから初回にデッドボールを受けたんです。左腕が上がらないくらい腫れて、キャッチャーとして球を取ることすらできないくらいの重傷でした。それでも「後悔したくないから出させてください」と言って出たのですが、どんな状況でも諦めずに最後まで頑張る姿勢を貫けたことで、「よく頑張ったな、感動したよ」と言ってもらえました。
背番号2が久下将稔氏・本人提供
――打倒・平安への執念ですね。
久下:高校時代だけは打率が良かったのでマークされてたんです。後々聞いたのですが、平安の原田英彦監督が「京都大会で一番注目していたキャッチャーだった」と仰っていたそうです。最初は高校で完全燃焼して、大学で野球をするつもりはなかったのですが、デッドボールを当てられたのがきっかけで大学でもやろうと思いました。
――それはなぜですか?
久下:それまで野球しかしていなかったので違う世界を見たいなという気持ちが強く、体育の先生になるために勉強したかったんです。でも、デッドボールを受けて3打席バットを振れず、ボテボテのピッチャーゴロが精いっぱいでした。なんで最後の最後でこんなパフォーマンスしか出せないんや、野球人生がこれで終わるのは癪やと思って大学でも続けました。あれがなかったら違う人生だったかも知れません。当ててくれてありがとうという気持ちですね。
本人提供
■複雑だった大学時代の入替戦での決勝打
――京都の大谷大学でも野球を続けられました。
久下:1年生と2年生の時は上級生にいじめられました。そこそこプレーできたのでポジションを奪われたくないからだと思いますが、2年生の頃は学校に行けないくらい精神的にきつかったです。それでも2年生の時から試合に出ていたのですが、京滋リーグで2部に降格しそうになって入替戦に出た時のことは忘れられないですね。
――何があったんですか?
久下:いじめられていたので、正直、2部に落ちろと思っていたんです。そしたら、ここで一本打ったら残留という状況で打順が回ってきました。本当に迷ったんですが、自分たちが2部スタートになるのはきついなと思って無心で打席に入ったら、満塁で走者一掃の逆転ツーベースを打てて残留したんです。打っても全然嬉しくなくて、本当に複雑でした。
――そのおかげで1部で戦えたんですね。
久下:そうですね。中学の時にバッテリーを組んでいた奥井雄亮と再びバッテリーを組んで、4年生の時は6チーム中3位に入りました。1位が佛教大学、2位が京都学園大学(現京都先端科学大学)、3位が大谷大学でした。
――大学で一番印象深かったことは何でしょうか?
久下:大学に行っていろいろな人と出会い、野球に対する取り組み方とか、考え方とか、本当に視野が広がりました。キャッチャーなのでいろいろな選手を分析するんですが、なぜそんな投げ方でスピードが出るの?という投手もいるし、プレースタイル以外にも生活や考え方なども含めて新しい発見ばかりでした。そういう意味では充実してましたね。
大学時代の久下将稔氏・本人提供
■従業員との面談で一緒に泣く
――大学卒業後は就職されたんですか?
久下:スーツメーカーに就職しました。父親が設備の職人だったので、作業着を着る仕事はしたくなかったんです。今してるんですけど(笑)。それで、格好良いスーツ姿で働きたいと思って決めました。最初の配属先は福井県で、同期の新卒150人くらいの中では最短で昇格したんですよ。
――それは凄いですね。
久下:25歳の時に同じ職場だった妻と結婚して、より給料の高い会社に転職することにしました。一番きつい仕事をして修行したいと考えて、訪問営業に行きついたんです。外壁塗装とかリフォームの訪問営業をする会社に転職して3、4年経験しました。
――その後、独立してONE LINK株式会社を創業されたんですか?
久下:いえ、元々は私がまだスーツメーカーにいた2016年に、かつてバッテリーを組んでいた奥井が設立した会社なんです。私が独立しようと相談したら一緒にやろうと言われて入社しました。今は奥井は別の会社に移ったので、私が意志を引き継いで社長に就任しました。
――野球から学んだことは活きていますか?
久下:人と仕事をするところ、チームで喜びを共有するところは野球と共通しています。それに尽きますね。特にキャッチャーは相手が何を求めてるとか、どんなコンディションとか見抜く必要があるので洞察力が磨かれます。ありがとうとか、助かったわとか、些細な声かけをするだけで相手の気持ちは変わることも野球から学びました。
――野球人生で最も影響を受けた人物は誰ですか?
久下:バッテリーを組んでいた奥井ですね。性格からプレースタイルから全てが真反対なんです。才能あふれるセンスの塊で、私は不器用でひとつのことしかできない。常にジェラシーを感じていました。漫画に出てくるような男なんで、どれだけ私が悪く言われても、そういうピッチャーを支えているんだということに喜びを感じていました。偶然出会ったピッチャーですが、性格的にも、ポジション的にも凄く縁を感じます。
――仕事をする上で野球をやっていてよかったと実感したことはありますか?
久下:勝利を目指して全力で取り組んでいる人々のことを、今風の言葉で「ガチ勢」と言うのですが、誰かと喜びも悔しさも共有できた時に幸福感を抱くと思います。それは野球というチームスポーツをやってきたから感じることで、仮に上っ面の付き合いだけで多大な利益が出ても嬉しくないでしょう。くさいかも知れませんが、従業員と一緒に泣くことがあります。結果が出なくて悔しいと従業員が泣くと私も泣くんです。そういう熱さは、野球も仕事も全く一緒ですね。
――実際に涙をこぼすんですか?
久下:難しいことができなくても仕方ないと思うかも知れませんが、例えば同じ資料を持って、みんな同じ条件でやっているのに営業活動で差が出たとします。面談で本音で話し合うと、悔しくて涙を流す社員もいます。その気持ちがすごく分かるので、一緒に泣いちゃうんです。やりすぎたらこちらもしんどいので、3カ月に1回とかにしてますけどね(笑)。
――今後の目標やゴールは?
久下:5年で30店舗、売上10億円まで増やしたいと考えています。私がやろうしてる代理店は、お困りごとを解決するために、相手が何に困ってるのか分からないとスタートできません。その洞察力、相手がどういう思いなのか汲み取ろうとする力はキャッチャーとして養いました。会社の理念に「プロフェッショナルであれ」を掲げているのですが、訪問して家に上がった瞬間から出るまで、本当のプロじゃないとお客さんからありがとうと言ってもらえません。学生時代、グラウンド整備やボール磨きは全て自分に返ってくると教えられました。メールのやり取りひとつ取っても同じです。野球で学んだプロ意識を営業職でも極めていきたいですね。