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「無力感を味わい続けた」野球部時代の写真をずっと手帳に入れている理由【たかみむすび株式会社・畝尾賢明社長】

野球

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たかみむすび株式会社の畝尾賢明代表取締役社長

たかみむすび株式会社の畝尾賢明代表取締役社長は奈良県高校野球の強豪・郡山高校で厳しい練習に明け暮れたもののレギュラーにはなれず、千葉大学でも野球を続けました。挫折し、悔しさを味わった経験は、社会人になってからどのように活きているのでしょうか。社会人になってからも手帳に忍ばせていた野球部時代の写真に込められた思いとは…。


【ゲスト】

たかみむすび株式会社

畝尾賢明代表取締役社長

1990年11月24日、鹿児島県出身。中学1年から野球を始め、奈良県立郡山高等学校、千葉大学で硬式野球部に所属。卒業後、人材教育コンサルティング会社に就職し、2019年、たかみむすび株式会社を創業。2020年には千葉大学野球部のチームメイトと株式会社ソーシャルグッドカンパニー創業。

■50mダッシュ100本、1日400球投げ込んだ高校時代

――野球を始めたのはいつ頃ですか?

畝尾:中学校で軟式野球を始めました。生まれは鹿児島で、その後、福岡、神奈川と転居して、神奈川県綾瀬市の中学校でした。小学校6年間は剣道をしていました。父親が野球好きで剣道が終わったらキャッチボールをしてたんですが、剣道は6年間続けろと言われたんで、中学に入ったら野球をやりたいと部活に入りました。

――ポジションは?

畝尾:中学の最初はサードとか。あと、投手へのあこがれは強くありました。

――高校は甲子園に出場したこともある奈良県立郡山高校へ入学されました。

畝尾:中学2年の時に奈良に引っ越して、郡山は学力的にもいいし、野球も強かったので入りました。最初はピッチャーやって、ダメで外野に移りました。

――最高成績は?

畝尾:私はベンチにすら入ってなかったのですが、学校は2年の時に秋の近畿大会で2回戦進出しました。3年夏は奈良県大会の準々決勝で負けましたね。

郡山高時代

郡山高時代・本人提供


――千葉大学に進んだ理由は?

畝尾:ワールドウイングの小山裕史先生の初動負荷トレーニングを高校時代に勉強してて、トレーニングをやってみたかったんですが、ジムが千葉の市川市にあったんです。それにバイオメカニクスを勉強したくて、千葉大学のスポーツ科学学科にそれがありました。いくつかの要因が重なって千葉大学を選びました。

――千葉大学でも野球部に入部されました。

畝尾:3回生の秋までやりました。2年の時に2部で優勝しましたけど、入れ替え戦で負けて1部リーグには上がれませんでした。

――ポジションは?

畝尾:外野ですが、レギュラーではなく、出たり出なかったりでした。

千葉大時代

千葉大時代・本人提供


――その後、社会人野球は考えなかったんですか?

畝尾:全くですね。未練はなかったです。

――野球をやった中で一番印象に残っていることは何ですか?

畝尾:全くうまくならなかったことです。運動神経は悪いわけではないと思いますが、努力しても埋められないものがある。とんでもない練習量をやっていたので、それが私の血となり肉となった感じですね。

――それを最も痛感したのは?

畝尾:練習試合で使ってもらっても成績が出なかったり、高校時代に大阪桐蔭と練習試合をした時に中田翔さんが来て、プロに行く人はものが違うなと感じました。それ以外の選手のプレーを見てもレベルが違うなと感じましたね。

――同級生に勝てないと感じたことはありましたか?

畝尾:何度もありますよ。1年の時からショートで出てた選手もいたし、プロ注目の先輩方もいたし、私の同級生でも東京六大学でレギュラーを張って、社会人野球の強豪でレギュラーを取った後にコーチをやってる者もいます。高校の先輩だとロッテの荻野貴司さんとか、凄い方が練習に来ていただいて間近で見ました。超えたい、負けたくないという思いはありましたが、勝てなかったです。

――レギュラーを獲るために一番やった練習は?

畝尾:走り込みですね。あの山まで行って帰ってこいとか、3時間くらい走っとけとか。PP(ポール間走)を50本くらいやっていたし、グラウンド一周360メートルをずっと走らされるとか、50メートルダッシュ100本、7.5秒切りとか。投げ込みも朝錬で200球、午後錬で200球やれ、化けるか壊れるかだと言われたんですが、僕は壊れました。

――肩を壊したんですか?

畝尾:右肩と右肘を壊してます。高校1年の終わり頃でした。

――リハビリは大変でしたか?

畝尾:ボールをほぼ投げられなくなって外野に行ったり、イップスになったりしました。野球をやってた時は、嫌な奴だったと思います。いかに他人よりも上に行けるかとか、あいつケガしねえかなとか思ってました。メンタリティは荒んでましたね。

――その悔しさはその後の人生に活きてますか?

畝尾:めちゃくちゃ活きてますね。野球ではどれだけ頑張っても成果が出ませんでしたが、ビジネスは頑張れば成果が出ます。仕事が楽しくなったのは野球部時代の挫折経験のおかげかと思っています。

――元々はプロ野球選手になりたかったんですか?

畝尾:小さい頃の夢はプロ野球選手でした。憧れはイチローさん、上原さん、斎藤雅樹さんとか大好きでした。中学生くらいまで夢見てました。大学で野球をやったのは高校時代にあまりにも試合に出られなかったんで悔しくて続けたんです。野球をやるためにやってた感じですね。

■知覧特攻平和会館で感じた英霊からの問いかけ

――2013年、千葉大学卒業後に人材教育コンサルティング会社に就職されました。

畝尾:当時のスポーツ界は体罰もあったし、理不尽で1カ月グラウンドから出されるなどもありました。私は高校時代の監督を尊敬してましたが、学校の先生とは馬が合わなかったんです。もちろん僕にも責任があるんですが。そういう経験から、スポーツ界を教育の力で変えられるんじゃないかという思いがあって、中小企業の経営者や個人事業主に3日間の研修を販売する営業をしていました。1年半くらいは苦労しましたけど、その後は楽しくなってきましたね。いろんな経営者の方にかわいがっていただき、勉強させていただき、最年少で売上の表彰をいただいたこともありました。

――起業するきっかけは?

畝尾:30歳までにという気持ちはぼんやりとあったんですが、26歳の時に祖母の体の調子が悪くなって何年ぶりかに鹿児島に会いに行ったんです。今、別会社を一緒にやっている大学の同級生と一緒に知覧特攻平和会館に行って、英霊たちの遺書を見て、90分くらい号泣し続けました。

会館を出た時、英霊たちに「今の日本てどうなの?」と聞かれた気がしたんです。その時に「申し訳ないです」という思いしか出てきませんでした。物質的には豊かになってますが、自分たちの命を投げ出してくれた人たちが60年後、70年後、こうなっているんだろうなと望んでいた日本社会ではないだろうなと。

その思いがあって、だからこそ教育を通じて企業の変革、人作りの文化を作っていきながら日本人が古来から大切にしてる精神性などを届ける側に回ろうと、研修事業やコンサル事業を始めました。新卒の時から500名以上の経営者を見てきましたけど、うまくいってる会社はそこだよなという結びつきもありました。

――最も印象深いことは?

畝尾:遺書に何が書かれてるかというと感謝の気持ちなんです。お父さん、お母さん、育ててくれてありがとう。近所の誰誰さんにもありがとう、よろしくお伝えください、友達のお母さんにもとか。そもそも自分はそんなに感謝してたかなと思いました。弟には立派な男になりなさい、清く正しく生きなさいみたいなメッセージを残していました。感謝している人の円の大きさが今の自分たちでは考えられないくらい大きいなと感じました。

それを見たときに自分はこれだけ恵まれた社会に生きて、今周りの方々にそんなに感謝してたかなと思いました。そして手紙を当てている彼らの弟・妹が自分たちの祖父母なんですよね。その時に強い過去からのつながり、生かしてもらえているんだということも感じました。

――零戦で飛び立つ前の手紙ですね。

畝尾:そうです。私は親父とお袋、妹には書いても、近所のおばちゃんのことは気にしないなと。怖いから手紙そのものを書かないかもしれないとも思いました。26年間、その魂、精神で生きてきたかなと思いました。

――起業する事業についても知覧に行ってからそこに行き着いたんですか?

畝尾:そもそも私がいた会社は研修、コンサル事業をやっていました。私自身は営業だったので研修はしたことがなかったんですが、やってみようという流れです。2019年に28歳で起業しました。

――起業してからも野球部時代に培ったことは役立ちましたか?

畝尾:一番は高校時代よりも辛いことはないと思えることです。肉体的なしんどさはもちろん社会人では上回りませんが、精神的なダメージを超える機会はないですね。どれだけやっても壁にぶつかって無力感を味わい続けた高校3年間に比べると、ビジネスの世界でも苦しいことはたくさんありますが、ちょっとは成長を感じられるところが必ずがあります。高校生の頃は全部うまくいってない、俺はダメだと思い続けてました。それに比べると全部楽しいなと。

――高校時代の悔しさを忘れないために持っているものはありますか?

畝尾:手帳に高校時代や大学時代の写真をずっと入れてました。打席に立っている写真と3年夏に負けてみんなで撮った写真です。楽しかったのもありますが、これがあったから今の私があるとずっと思って生きてきました。今も手帳に挟まってますが、あんまり見てないですね。今は自分の中ではクリアです。

畝尾賢明社長が手帳に入れていた郡山高野球部時代の写真

畝尾賢明社長が手帳に入れていた郡山高野球部時代の写真・本人提供


畝尾賢明社長が手帳に入れていた千葉大野球部時代の写真

畝尾賢明社長が手帳に入れていた千葉大野球部時代の写真・本人提供


――5年間を振り返って起業前のイメージと違いはありますか?

畝尾:ありがたいことに、イメージしてた以上の仕事をさせていただけてます。

――サラリーマン時代と今の一番の違いは?

畝尾:覚悟じゃないですかね。真剣勝負ですよね。うまくいかなかったら全部自分の責任。自分の判断、選択で道を間違えることもあるし、自分が話す言葉で社員が辞める、頑張ることもあります。良いことも悪いことも全部、自分が生み出してる。大きな違いだと思いますね。

――「たかみむすび」という社名の由来は?

畝尾:日本書紀に出てくる高御産巣日神(たかみむすびのかみ)という神様です。造化の三神のひとつで、一般的には生成の神様と言われていますが、良い会社をたくさん作るお手伝いをしたいという思いがあります。

それと、日本書紀の中で、今から2683年前に神武天皇が高千穂を立たれて奈良の橿原に行く御東征の際に、神武天皇に危機が訪れた時に神剣を下し、八咫烏を派遣したのが高御産巣日神という説があって、いいなと思いました。

人とか採用とか教育で困っている経営者が多い中で、繁栄するための道案内というのが教育を通じてできるといいなと。そもそも日本文化とか精神性を伝えていこうと思っていたので、名前もそういうところにしようと決めました。

――これから社会に出ていく、スポーツをしている学生に向けて伝えたいことは?

畝尾:時間軸を長く持つことと本気で取り組むことです。野球がダメだから自分がダメと思った時期がありましたが、野球がダメだったから今の自分があると胸を張って言えます。下手なりに本気でやりましたから。尋常じゃないレベルの本気です。血尿は出るし、肋間神経痛になるし、とんでもないストレスでした。イライラしてものを殴って壊したり、取り乱すくらい。

それくらい本気で向き合ったからこそ、できなかったことを受け入れられるんです。言い方は難しいですが、野球をうまくなるために野球をやっているんじゃない。今は野球をやるためだけに大学に行く方も多いと思いますが、元をたどると自分の人生があって、その自分自身の人生をよくしていくために野球をやっているんです。社会に出て立派な大人になるために野球をやっている。

そこがズレると、いつまでもズルズルやったりとか、それも否定はしないけど、良い人生、良い大人になるために本気でスポーツをやってくださいと思いますね。特にダメだった経験が役に立ちます。ベンチにも入ってない人間が5年も会社を経営して、社員も増えて、野球部の経験があったから今があると思っています。もちろん満足はしていませんけどね。

畝尾賢明社長

本人提供

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